2013年01月30日
ミニエー弾から歴史を辿る・・・
昨年、ダイビング中海底で鉄砲の弾を見つけた・・・。

沖縄ですから、ダイビング中海底で銃弾弾丸を見かけることはそう珍しくもない・・・。
それどころか、巨大な不発弾や機雷なども沿岸で相当見かけているほどだ・・・。
しかし99%、それらの殆どが太平洋戦争時のもので、日本軍の銃弾、機雷、アメリカ軍の弾丸などなど・・・。
ところが、そのとき海底で見つけたものは、明らかに太平洋戦争時のものとは違う・・・。
しかし、それはどう見ても弾丸・・・。
これは一体なんだ・・・?
という事で、調べてみることにした・・・。
ミニエー弾・・・。
なんと、遡る事約200年前・・・。
1800年代に欧米、そして日本で多く使われたライフル銃、ミニエー銃、エンフィールド銃に使われた銃弾、ミニエー弾ではないかと言うことが解った。

解りやすく言うと、時代背景は幕末!
江戸幕府、長州藩もこぞってオランダなどから大量に輸入購入している。
そしてあの坂本竜馬も長崎のグラバー商会からこの銃と銃弾を大量に買い付けた記録が残っていることから、戊辰戦争でも最前線で使用され、日本の大きな歴史のひとつの節目に立ち会ったとも言える銃弾であったのだ・・・。
そんな歴史の証人のような遺産が、今目の前に転がっている・・・。
更に、このミニエー弾、発射構造を調べてみると、弾丸の後ろ側に溝が掘られていて、そこに火薬が詰め込まれ、木栓などで蓋をする前装式の構造である。
まずはネットで調べるものの、資料として掲載されているミニエー弾でも、さすが木栓までされている当時のままの弾丸はなかったが、僕が手にしたものは、その当時のまま木栓までしてある貴重な状態のものだった・・・。
その他陶器の破片や明らかに木造船の船体のキールか助骨部分を形成していたと思われる大きな木材が砂の中から出てきた・・・。
このキール、または助骨の角度を調べると、大まかに船のサイズが解ってくるのではないだろうか・・・。

間違いなく、ここにはピンポイントで1800年代に日本に貿易に向かっていた途中の外国船が沈んだ形跡がある・・・。
そして、やはり通説となっているオランダ船なのだろうか?
日本とオランダとの交易の歴史は最も古く、17世紀から19世紀かけて、延べ700隻以上の交易船が往来したらしい。
しかし、どうも当時のオランダ商船は航海の途中での海賊行為もかねていたらしい。
特にスペイン、ポルトガル、中国の船を洋上で見つけては、とてつもない数の略奪行為を繰り返したという。

一方、当時の琉球政府の船は、中国の船をまねして造られたジャンク船(山原船)が主流だったため、日本とオランダの航海途中ですれ違うオランダ船に琉球ジャンク船が見つかると中国船と間違われて襲われてしまうらしい。
そこで、当時日本の徳川幕府は、薩摩藩に統治されていた琉球政府に対しての一切の海賊行為をしてはならないという通達を、オランダ側に提示。
そこで琉球ジャンク船も、洋上で船にオランダの国旗を掲げて航海する事で、中国船との見分けにし、実際一度たりともオランダからの被害は受けていないという。
鎖国時代も長崎の出島に商館を置き、唯一日本はオランダとの貿易だけは続けてきた。
日本の天狗伝説のモデルも、オランダ人がモデルになっているといわれている・・・。
そんな深い関わりを長い間持ってきたオランダですから、あの場所に当時のオランダ船の一隻が座礁沈没してたとしても不思議でないといえば不思議ではない・・・。
ただ腑に落ちないのはその沈没位置である。
大きさも規模も桁違いとはいえ、自分も船を操船する立場で見たら、通常航海においていくらなんでもあの航路は絶対通らない航路である。
何百回と航海している航路で沖縄特有のリーフの張り出しや浅瀬なども熟知していたと思う。
仮に夜や視界が悪い状態だったとしたら、なお更沖側にマージンをとるのが通常であろう。
という事は、予期せぬ台風をやり過ごすため、リーフの内側に入ろうとしたのか・・・?
その時あの周辺に錨泊しようとしたのか・・・?
はたまた錨がはずれて流されて乗り上げてしまったのか・・・?
憶測は尽きない・・・。
船の形としては全く残っていない・・・。
そんなレックダイブ・・・、というか殆どトレジャーダイブに近いようなわくわく度満点のダイビング!
しばらく頭の中は見たこともない1800年代の風景と心理でいっぱいです・・・。
O2DIVE OKINAWA/旭潜水技研
http://www7.ocn.ne.jp/~o2dive
沖縄ですから、ダイビング中海底で銃弾弾丸を見かけることはそう珍しくもない・・・。
それどころか、巨大な不発弾や機雷なども沿岸で相当見かけているほどだ・・・。
しかし99%、それらの殆どが太平洋戦争時のもので、日本軍の銃弾、機雷、アメリカ軍の弾丸などなど・・・。
ところが、そのとき海底で見つけたものは、明らかに太平洋戦争時のものとは違う・・・。
しかし、それはどう見ても弾丸・・・。
これは一体なんだ・・・?
という事で、調べてみることにした・・・。
ミニエー弾・・・。
なんと、遡る事約200年前・・・。
1800年代に欧米、そして日本で多く使われたライフル銃、ミニエー銃、エンフィールド銃に使われた銃弾、ミニエー弾ではないかと言うことが解った。
解りやすく言うと、時代背景は幕末!
江戸幕府、長州藩もこぞってオランダなどから大量に輸入購入している。
そしてあの坂本竜馬も長崎のグラバー商会からこの銃と銃弾を大量に買い付けた記録が残っていることから、戊辰戦争でも最前線で使用され、日本の大きな歴史のひとつの節目に立ち会ったとも言える銃弾であったのだ・・・。
そんな歴史の証人のような遺産が、今目の前に転がっている・・・。
更に、このミニエー弾、発射構造を調べてみると、弾丸の後ろ側に溝が掘られていて、そこに火薬が詰め込まれ、木栓などで蓋をする前装式の構造である。
まずはネットで調べるものの、資料として掲載されているミニエー弾でも、さすが木栓までされている当時のままの弾丸はなかったが、僕が手にしたものは、その当時のまま木栓までしてある貴重な状態のものだった・・・。
その他陶器の破片や明らかに木造船の船体のキールか助骨部分を形成していたと思われる大きな木材が砂の中から出てきた・・・。
このキール、または助骨の角度を調べると、大まかに船のサイズが解ってくるのではないだろうか・・・。
間違いなく、ここにはピンポイントで1800年代に日本に貿易に向かっていた途中の外国船が沈んだ形跡がある・・・。
そして、やはり通説となっているオランダ船なのだろうか?
日本とオランダとの交易の歴史は最も古く、17世紀から19世紀かけて、延べ700隻以上の交易船が往来したらしい。
しかし、どうも当時のオランダ商船は航海の途中での海賊行為もかねていたらしい。
特にスペイン、ポルトガル、中国の船を洋上で見つけては、とてつもない数の略奪行為を繰り返したという。
一方、当時の琉球政府の船は、中国の船をまねして造られたジャンク船(山原船)が主流だったため、日本とオランダの航海途中ですれ違うオランダ船に琉球ジャンク船が見つかると中国船と間違われて襲われてしまうらしい。
そこで、当時日本の徳川幕府は、薩摩藩に統治されていた琉球政府に対しての一切の海賊行為をしてはならないという通達を、オランダ側に提示。
そこで琉球ジャンク船も、洋上で船にオランダの国旗を掲げて航海する事で、中国船との見分けにし、実際一度たりともオランダからの被害は受けていないという。
鎖国時代も長崎の出島に商館を置き、唯一日本はオランダとの貿易だけは続けてきた。
日本の天狗伝説のモデルも、オランダ人がモデルになっているといわれている・・・。
そんな深い関わりを長い間持ってきたオランダですから、あの場所に当時のオランダ船の一隻が座礁沈没してたとしても不思議でないといえば不思議ではない・・・。
ただ腑に落ちないのはその沈没位置である。
大きさも規模も桁違いとはいえ、自分も船を操船する立場で見たら、通常航海においていくらなんでもあの航路は絶対通らない航路である。
何百回と航海している航路で沖縄特有のリーフの張り出しや浅瀬なども熟知していたと思う。
仮に夜や視界が悪い状態だったとしたら、なお更沖側にマージンをとるのが通常であろう。
という事は、予期せぬ台風をやり過ごすため、リーフの内側に入ろうとしたのか・・・?
その時あの周辺に錨泊しようとしたのか・・・?
はたまた錨がはずれて流されて乗り上げてしまったのか・・・?
憶測は尽きない・・・。
船の形としては全く残っていない・・・。
そんなレックダイブ・・・、というか殆どトレジャーダイブに近いようなわくわく度満点のダイビング!
しばらく頭の中は見たこともない1800年代の風景と心理でいっぱいです・・・。
O2DIVE OKINAWA/旭潜水技研
http://www7.ocn.ne.jp/~o2dive
Posted by TAKEちゃん at 16:03│Comments(0)
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