2009年06月18日
生き証人!
僕はやはり海にフィールドを求めるダイビングが大好きである!
特に、そんな好きなダイビングに纏わるダイバーとしての人間模様や人生というものにとても興味をそそられる。
そんな中、今日は僕にとってとても貴重な人物と出会うことができた!
本部に住む現在80才になられる中村英雄さん!

日本全体の中で、ダイビングのはしり・・・、開拓者の一人である。
まだ琉球政府だった復帰前は、あの益田一氏やマリンダイビングの創設者 館石章氏などとサバニで沖縄の海を潜り倒していたらしい。
当時、沖縄にはダイビングタンクなど1本もない時代だったそうだが、当時中村さんは消火器を改造してAIRを詰めたり、時には米軍に忍び込んでダイビングタンクをかっぱらってきては使っていたという・・・。
そんな貴重なタンクをなぜか持っていたこともあって、日本のダイビング業界のパイオニア達は中村さんを頼ってきては一緒に潜っていたらしい。
当時はまだ、潜水士免許やらダイビング講習などない時代、県内どころか日本でも数少ないダイバーとして知られていたことから、その後琉球政府からの依頼で、現在での国家試験である潜水士免許の基盤と試験問題を作ったのがなんとその中村さんだったという・・・。
しかし笑ったのが、その本人自身がいまだ免許は持っていないというのだった・・・!
また、戦後間もないころ八丈島で、海のオリンピック「Blue Olympic」という世界大会があったらしい。
そのオリンピックの巣潜り競技で、中村さんは当時55m潜って銅メダルを獲得している。
その時のオリンピックを、まだ選手ではない頃のジャックマイヨールが見学に訪れていて、そのとき中村さんが使っていた、木を繰り抜いて作った自作のゴーグルに大変興味を持ったらしく、その後ジャックマイヨールがフランスから中村さんを探して本部まで自作のゴーグルを買いにきたという。
そんな沖縄というか、日本のダイビングのパイオニアの一人であった中村さんは、昭和19年、15才のとき土浦航空隊に入隊した最後の予科練生でもあったという・・・。
中村さんは15才のとき、いわゆるお国のために特攻攻撃を命じられる「特攻隊」の一員として、出撃の日を待ち訓練を受けていた最中に終戦を迎えた。
中村さんは「あの頃の日本教育は今の北朝鮮となんら変わりなかった・・・」「死ぬことなんて少しも怖くなかった・・・」と言う。
現在の5人いる自分の子供たちの、3人目が生まれるまでは自分が予科練生だったことは子供にも周りにも隠していたという。
「どうし隠してたんですか?」という僕の問いに、「そう答えるのが何だか馬鹿らしく思えた」と言っていた・・・。
実際、操縦幹を握って特攻出撃までは行かずに済んだものの、当時15才の中村少年は予科練に入った時点ですでに自分の命はお国の為に差し出した。
一度、本物の死を本気で覚悟した者の言葉はとても意味深くそして重かった・・・。
戦前戦中戦後の沖縄と日本の移り変わり・・・。
戦後、米軍のやりたい放題・・・。
軍で必要なくなった爆弾や砲弾は、かなり海に捨てていたらしい・・・。

このきれいなサンゴの海に米軍によって意図的に捨てられた不発弾の山は、今でもこの沖縄の海底のあちこちに散らばっています。
今日も不発弾の調査に行って、「戦争」と「ダイビング」と「沖縄の海」の関係性を新たに再認識しました・・・!
中村さんという方と知り合えたことは、これからの私のダイビングに大きな影響力となりそうだ!
今日も有意義な1日でした!
O2DIVE OKINAWA/旭潜水技研
http://www7.ocn.ne.jp/~o2dive
特に、そんな好きなダイビングに纏わるダイバーとしての人間模様や人生というものにとても興味をそそられる。
そんな中、今日は僕にとってとても貴重な人物と出会うことができた!
本部に住む現在80才になられる中村英雄さん!
日本全体の中で、ダイビングのはしり・・・、開拓者の一人である。
まだ琉球政府だった復帰前は、あの益田一氏やマリンダイビングの創設者 館石章氏などとサバニで沖縄の海を潜り倒していたらしい。
当時、沖縄にはダイビングタンクなど1本もない時代だったそうだが、当時中村さんは消火器を改造してAIRを詰めたり、時には米軍に忍び込んでダイビングタンクをかっぱらってきては使っていたという・・・。
そんな貴重なタンクをなぜか持っていたこともあって、日本のダイビング業界のパイオニア達は中村さんを頼ってきては一緒に潜っていたらしい。
当時はまだ、潜水士免許やらダイビング講習などない時代、県内どころか日本でも数少ないダイバーとして知られていたことから、その後琉球政府からの依頼で、現在での国家試験である潜水士免許の基盤と試験問題を作ったのがなんとその中村さんだったという・・・。
しかし笑ったのが、その本人自身がいまだ免許は持っていないというのだった・・・!
また、戦後間もないころ八丈島で、海のオリンピック「Blue Olympic」という世界大会があったらしい。
そのオリンピックの巣潜り競技で、中村さんは当時55m潜って銅メダルを獲得している。
その時のオリンピックを、まだ選手ではない頃のジャックマイヨールが見学に訪れていて、そのとき中村さんが使っていた、木を繰り抜いて作った自作のゴーグルに大変興味を持ったらしく、その後ジャックマイヨールがフランスから中村さんを探して本部まで自作のゴーグルを買いにきたという。
そんな沖縄というか、日本のダイビングのパイオニアの一人であった中村さんは、昭和19年、15才のとき土浦航空隊に入隊した最後の予科練生でもあったという・・・。
中村さんは15才のとき、いわゆるお国のために特攻攻撃を命じられる「特攻隊」の一員として、出撃の日を待ち訓練を受けていた最中に終戦を迎えた。
中村さんは「あの頃の日本教育は今の北朝鮮となんら変わりなかった・・・」「死ぬことなんて少しも怖くなかった・・・」と言う。
現在の5人いる自分の子供たちの、3人目が生まれるまでは自分が予科練生だったことは子供にも周りにも隠していたという。
「どうし隠してたんですか?」という僕の問いに、「そう答えるのが何だか馬鹿らしく思えた」と言っていた・・・。
実際、操縦幹を握って特攻出撃までは行かずに済んだものの、当時15才の中村少年は予科練に入った時点ですでに自分の命はお国の為に差し出した。
一度、本物の死を本気で覚悟した者の言葉はとても意味深くそして重かった・・・。
戦前戦中戦後の沖縄と日本の移り変わり・・・。
戦後、米軍のやりたい放題・・・。
軍で必要なくなった爆弾や砲弾は、かなり海に捨てていたらしい・・・。
このきれいなサンゴの海に米軍によって意図的に捨てられた不発弾の山は、今でもこの沖縄の海底のあちこちに散らばっています。
今日も不発弾の調査に行って、「戦争」と「ダイビング」と「沖縄の海」の関係性を新たに再認識しました・・・!
中村さんという方と知り合えたことは、これからの私のダイビングに大きな影響力となりそうだ!
今日も有意義な1日でした!
O2DIVE OKINAWA/旭潜水技研
http://www7.ocn.ne.jp/~o2dive
Posted by TAKEちゃん at 00:35│Comments(0)
│海底戦跡
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